米子思い出めぐりマップ

タイムトリップ米子 そぞろ歩きコース
≪米子城跡とその周辺・3時間コース≫


★コースの概略
米子駅前から米子城方面(湊山公園方面)へ歩き、二の丸の上がり口(テニスコート)から城山へ登ります。城山の上から市内を遠望した後、海側へ降りて、湊山公園の海岸線を歩き、児童文化センター側から公園出口へと進む、約3時間のコースです。
★JR米子駅前を出発。
★駅前通を、米子城方面(湊山公園方面)に向かって歩いてみましょう。

【1】山陽線(山陰線)開通
●明治35年11月
明治35年、境-米子-御来屋が開通。式典挙行。当時、駅の所在地は成実村。
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【2】米子駅前通り
●明治45年
駅前広場と駅前通りを建設、明治43年完成。写真は明治45年、山陰線開通記念博覧会の歓迎塔。
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【3】米子駅前通り
●大正中期
建ち並ぶ倉庫と大八車の数々。
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【4】米子駅前通り
●大正後期
かしわぎ旅館前のラクトーゲン(粉乳)の宣伝車。
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【5】米子駅前広場
●昭和戦前
駅前右にフォードのハイヤー、左に6角形のポリボックス。
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【6】米子駅前通り
●昭和戦前
祝賀の日、駅前通りの賑わい。
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【7】米子駅前通り
●昭和戦前
左手前は米吾(こめご)、通り突き当たりは潮止(しおど)め松。
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★駅前通のアルファーワンの前にて

【8】米子駅前通り御幸座(現アルファーワン)
●昭和戦前
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★米子大丸跡の駐車場まで歩きましょう。

【9】米子駅前通り
●昭和40年代
歩道にアーケードが見られる。右手奥の建物は米子大丸。
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★駅前通をファミリープラザの交差点まで歩きましょう。
≪米子城≫
★ファミリープラザの「加茂町2丁目交差点」を米子商工会議所側に渡り、安来方面へ進み次の「久米町」交差点を右折して城山方面へ進みます。
次の角(日産レンタカー角)を左折して二の丸の上がり口にある「枡形」へ向かいます。

【10】米子駅前通り
●昭和20年代
手前右、練炭工場(現ファミリー)、手前左就将小学校。
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【11】米子城絵図面
●江戸前期
最も古い米子城絵図面 。城は慶長10年頃(1605)までに完成。
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【12】松江監獄米子主張所
●明治後期
三の丸(現野球場)にあった米蔵を改造して監獄とする。大正年間まで存在。手前左、屋根の白く光っている建物。
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【13】鳥取県産業観光米子大博覧会
●昭和25年
現野球場を中心として、大博覧会を開催。戦後米子市の復興に大きく寄与した。
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【14】原牧場
●昭和戦前
明治中期、城の作業場を中心として原(はら)氏による牧場が開かれる。最盛期にはホルスタイン種が50〜60頭。米子乳業の祖。
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★枡形の前から、テニスコートの山側を進みます。

【15】舛形(ますがた)
●平成現代
二の丸の上り口に設けられた防禦施設。
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【16】米城(べいじょう)焼
●昭和戦前
明治39年、形の内側で米城焼の窯が開かれる。戦時中閉じられる。
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★テニスコートの前に立つ門が「小原家長屋門」です。

【17】小原家長屋門
●昭和20年代
元米子城預り荒尾氏の家臣、西町の小原家の長屋門であったが、米子市に寄贈されここに移築された。
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★テニスコートの山側に「御殿御用井戸」があります。
御殿御用井戸を見たら、すぐ横にある石段から城山へ登りましょう。

【18】御殿御用井戸
●平成現代
二の丸御殿で使用されていた井戸のひとつ。
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★途中、「内善丸」と「本丸」の分岐点がありますので、まずは「内善丸」へ。

【19】内善丸(ないぜんまる)
●平成現代
戦国時代からの削平(さくへい)地。江戸時代、ここに火薬庫があった。
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★内善丸を見たら、もと来た道を戻り、「本丸」を目指します。
 本丸の石垣を見上げる位置に「番小屋跡」があります。

【20】番小屋跡
●平成現代
江戸時代、ここに天守閣を守る番人のいる小屋があった。
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★いよいよクライマックス、本丸に登ってみましょう。

【21】本丸の石垣
●平成現代
3層に積み上げられた本丸の石垣。この上に天守閣が建っていた。
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★本丸の上で、しばし米子市内を眺めながら、昔の写真と比較してみましょう。

【22】米子城天守閣
●明治1年
深浦方面から望んだ天守閣。四重櫓はすでに取り壊されている。
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【23】米子城本丸跡の航空写真
●平成21年
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【24】本丸からの眺望
●明治中期
眼下に広がる田畑は、もと侍屋敷。その中の大きな建物は角盤高等小学校(後の就将(しゅうしょう)小学校)。左手森は加茂神社。中央左右に延びる家並は本通り。
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【25】城山からの眺望
●明治中期
潮止(しおど)め松と清洞寺岩との間を埋め立てて水田を開く。ここが後に錦公園。
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【26】城山からの眺望
●明治後期
手前の山は内膳丸、その右手は内堀。内堀から北に延びる松並木は潮止め松。そこから北東に延びる通りは内町〜立町。この通りが戦国時代の城下町。上部右の森は糺山(ただすやま)で、白く光っているのは砂山。
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★糺山スキー場は、大山が「北」方向として、その左手「東」方向(現在の義方小学校付近)に臨むことが出来ます。

【27】糺山スキー場
●昭和戦前
糺(ただす)の砂山は戦前、米子市民のスキー場として賑わう。
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★さあ、それでは下山しましょう。もと来た道を途中まで降りて、「内善丸」との分岐点から海側へ降りてみましょう。

≪錦公園(現湊山公園)≫

★城山の海側まで降りてきたら、駐車場横の道を海まで進みながら写真を見てみましょう。

【28】出山の水泳場
●昭和25年
出山の南側入江は遠浅で、水泳場として最適であった。
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【29】日本冷蔵商会
●明治31年
わが国最初の製氷会社が内膳丸のふもとに開業。写真は明治36年。
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【30】錦公園と旧鈴のご門付近を結ぶ仮橋
●明治時代
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★海に突き当たったら、海を左手に見ながら、海岸線に設置してある写真を楽しみながら、夕日のモニュメントまで進み、夕日のモニュメントから児童文化センター前へ。

【31】錦公園の噴水池
●昭和戦前
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【32】噴水の鯉
●平成現代
現在、児童文化センター玄関前に展示。
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【33】錦公園の桜見
●昭和30年代
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★児童文化センターから、日本庭園の周辺に移動しましょう。

【34】錦公園水泳場
●昭和戦前
清洞寺岩から延びるコンクリート堤防と桟橋。
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【35】清洞寺岩
●大正〜昭和前期
清洞寺岩はもと島であったが、江戸時代埋め立てられ地続きとなって寺が建てられた。まわりの海が深く、飛び込み練習に最適の岩。
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【36】清洞寺岩三人五輪
●平成現代
右-加藤光泰(2代城主、加藤定泰の父)供養。中・左-池田由之(よしゆき)夫妻(城預り池田由成(よしなり)の両親)供養
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【37】日露戦争記念塔
●明治後期
清洞寺岩の東側に建立。
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★湊山公園の出口付近に建つ現「鳥大医学部旧保健学科棟」付近には、その昔、「鳳翔閣」が建っていました。

【38】鳳翔閣(ほうしょうかく)
●明治後期
大正天皇が皇太子のとき行啓。その宿泊所として建設。
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【39】鳳翔閣の前庭
●大正時代
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★湊山公園の出口に立つ大きな松が「潮止め松」です。

【40】潮止め松
●平成現代
ここが江戸時代の海岸線。
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★講演出口「潮止め松」の反対側には、「米子市商品陳列場」がありました。

【41】米子市商品陳列場
●昭和戦前
元西伯郡商品陳列場。昭和15年、山陰歴史館。場所は湊山公園入口の道を挟んだ反対側。(現医学部敷地)
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【42】米子市商品陳列場の横を走る市内電車
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★目の前の道(県道47号線)にはその昔、市内電車が走っていました。あなたがもしこれから米子駅に向かって帰るのでしたら、それが市内電車の走っていた道です。
本日の旅の案内はこれで終わりです。



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